「先哲先賢の教を学ぶ」 安川如風塾

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はじめに

人間として如何に生きるべきか。という問いに、心から納得できる答えを捜し求めることを、この塾は目的としたいと思います。

なぜ人間は悩み苦しむのか、また死ぬほどの痛苦を味わいながらも、なぜ生きなければならないのか。火事や交通事故のように向こうからやって来る苦難には、どんな意味があるのか。失敗の連続のように思える人生に、いったいどんな意義があるのか。生きる事の意味は、そして死ぬことの意味とは…。

死ぬほどの辛い苦難や困難を乗り越えるにはどう対処すれば良いのか。その道しるべを私とその仲間の人々と共に考え、勉強して行きたいと思います。

いま、この場で明確に言えることは、私とあなたを、人と自然を、人と神とを対立した別個の存在であるとみなす、世界は対立する二つのものによってできているとみなす、これまで当たり前だと思っていた日常的な、習慣的なものの見方や考え方から目覚め、自由にならない限り、解決できません。

この答えを探し求めて孔子を祖とする儒教、老子を祖とする道教、また釈尊の教えの仏教、過去から現代にいたる先哲先賢者たちの教えを学んで、人間として向上して行きたいと思います。

さてこの講義は古今の先哲先賢の教えを学ぶものですが、あまりにも膨大な書物があって、順序だって講義すれば数百年かかりますので、まことに勝手ですが、私の選んだ題目で進めることをお許しください。

中国の史書には左伝(さでん)、春秋(しゅんじゅう)、国語、戦国策、史記、漢書、後漢書、三国志、魏志倭人伝、資治通鑑(しじつうかん)十八史略(じゅうはつしりゃく)から始まり、政治論、言行録、儒家、道家、神仙家、法家、兵家、墨家、処世訓、仏家、文学、詩学、芸道、自然科学にいたる書物に、日本の祖師たち空海、最澄、道元、日蓮、法然、親鸞と、それらのお経の意味などと現代の哲人たち中村天風、安岡正篤、を勉強していきたいと思います。いかにして聖賢たるべしか命のある限り、学んでいきたいと思います。


◆第1回目 --- 『志を持つ』

◆第2回目 ---  六中観

◆第3回目 ---  <良知>の学

◆第4回目 ---  仁

◆第5回目 --- 人はなんのために学ぶか

◆第6回目 --- 感謝の心

第1回目 『志を持つ』

人間として第一番に心がけることは『志を持つ』と言うことです。何をするか、どう生きるか、自分の命をどう使うか、と考えることから始めます。

王陽明の「伝習録」には『志』をたてるとは、次のように説明されています。


ふだんから、一念一念に天理を存するように努めること、これが志をたてることにほかならない。これを心かければ、やがて自然に天理が心の中に確固とした形をとって現れてくる。それは道家でいう「胎内に聖を宿す」ことでもある。

現代的に言い換えるとすれば、ふだんから、一事一事(全ての事物に対して) 愛情を込めるように(自分の念を入れて)努めることを心かけていけば、やがては自然に愛が心の中に確立され、意識しなくても愛が発揮できるようになる。 料理をする時も、掃除をする時にも、絵を描く時にも、心のこもらない機械的な作業になってしまってはいけないというようなことです。

釈尊が聖誕する時代に近い頃、中国に四書五経(ししょごきょう)という経書(けいしょ)ができました。四書は、人間学のテキストとしての『大学』(だいがく)『中庸』(ちゅうよう)哲人の言行録としての『論語』(ろんご)『孟子』(もうし)などの儒教の経典のことです。五経、は儒教で尊重する『易経』(えききょう)『詩経』(しきょう)『書経』(しょきょう)『春秋』(しゅんじゅう)『礼記』(らいき)のことを言います。

先述した王陽明(1472−1528)が北京で塾師について勉強を始めた時に、その塾師に質問しました。
 「何が一番大切なことですか」
 塾師は、
 「学問をして科挙(かきょ・高級官僚になるための試験)に合格することです」と答えた。このとき陽明は、  「一番大切なことは、書を読んで聖賢を学ぶことだと思います」と答えた。
 聖賢とは「仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌、寛、恕、謙、勇、厳」の全てを兼ね備えた至誠の人格者のことを言います。
 これからこのことを学びたいと思います。

紀元前430年ごろにできた書で『大学』という四書の一番に置かれている、全文1750余文字の短い論書があります。この中に「格物(かくぶつ)、致知(ちち)、誠意(せいい)、正心(せいしん)、修身(しゅうしん)、斉家(せいか)、治国(ちこく)、平天下(へいてんか)」の八条目が書かれています。

事物に格(いたる・ただす)ってのち知が至り、理知を至高に達しめることにより、意が起こり誠の意志となる。この誠意に基づいて心が正しくなる。心が正しくなると身が修まる。身が修まると家が斉(ととの)う。家が斉うと国が治まる。国が治まると天下は平らかになって平和になる。万民すべて身を修めることが根本であります。根本が乱れていて末端が治まっていることなどありうるはずがありません。「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八項目です。

一番初めの<格物致知>について考えてみます。事々物々あらゆるものに、「理」(天理)が備わっている。<格物致知>とは、「物に格(いた)り、知を致(きわ)めることであり、<致知>とは知識を極める、「理」を窮(きわ)めること、<格物>とは、あらゆる事物に、その知識を進めて研究していくこと、つまり、事物の「理」を窮めて物に格(いた)ることが、<格物致知>であります。ただこの「理」には<良知>が必要であります。<格物>とは物を格(ただ)すという読み方もあります。事物に対して心を正しくして仁愛を発揮することこそ<格物致知>の根源であります。この仁愛こそ至誠であり、真心そのものであります。

あなた方はここにあって、勉強している間は、是非とも「聖賢」至誠の人格者になるという『志』をたてるように努力しなければなりません。そして一時一刻、いわゆる「一棒一條痕(いちぼういちじょうこん)一?一掌血(いっかくいちしょうけつ)のような真剣な緊張感をもって、私の話を聞いてこそ力が湧いて来ます。これに反して、ただぼんやりとして、だらけた日々を送っていると、人間として一塊の死肉と同じことで、いくら打っても痛いとも痒いとも感じず、結局はものにはならないでしょう。業を終えて家に帰っても、ただ昔のやり方を繰り返すだけで、ここで学んだことはなんにもならないでしょう。それでは、せっかく勉強にきた甲斐がなくて、なんとも残念なことではありませんか。

「一棒の痛打を受けて、ひとすじの痕跡が残り、平手打ちをして、手のひらに血が流れる」ような心構えや真剣さが必要です。

ぼんやりとして『志』のないだらけた生活はこれからやめにしましょう。
 林田明大(あきお)『真説・陽明学入門』より。


   『志』目的意識。『恒』常に継続する。『識』意識<格物致知>を持つ。



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第2回目 六中観

 
死 中 有 活

本当に行き詰まらなければ、道は開けない。死んだ気になって頑張れば開かない道はなく、活路が開かれる。うろたえてはいけません。

 

苦 中 有 楽

苦楽は相対的なものであり、苦の中に楽があり、楽の中に苦があるという意味。すなわち、別の角度から見る余裕がなくてはなりません。

忙 中 有 閑

閑ができたら勉強しょうと考えていたら一生できません、閑は忙中にあってこそ閑であり、それでなければ本当の閑とはいえません。忙という文字は、立心偏に亡ぶと書く。人間は忙しいと文字通り心が亡びる。どんな心がけの良い人でも何かを失う。特に大事なものを失う。地位や名誉ができるほど、有名になればなるほど、よほど気をつけないといけません。

壺 中 有 天

「後漢書」方術伝・費長房の故事によるもので、俗世間の中で生活していても、自分だけの世界、別世界を持ち、それを深めることの大切さをいいます。

 

意 中 有 人

常に心の中に私淑する偉人や、共に仕事をしたいと思う人などや、また人に乞われれば推薦できる人があり、それら心友と日々の交流を大切にします。

 

腹 中 有 書

腹の中に書、すなわち信念・哲学があり、座右の銘、愛読書を持っていることです。頭の中に書があるのはだめで、それは単なる知識にすぎない。腹の中に書があってこそ知識が腹に納まって、血となり、肉となって生きた人格を造り、賢明なる行動をとれます。

安岡正篤(まさひろ)『百朝集』と『後漢書』より 



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第3回目 <良知>の学

哲人賢人のお話を致します。失敗したことや落第したことを世間では「恥」としますが、失敗したことで心を動揺させるのを「恥」とします。

この塾では解脱(げだつ)という天上的なものの講義は致しません。厭離穢土(えんりえど)この世は苦しみや悪が多くて生きる値打ちがなくて、人間関係を含めた世の中のことすべてが煩わしい、というような消極的な考えではなく、家族への恩愛の情、人間への情愛を肯定する<良知>の学を論理的に講義いたします。

「朝、仕事にはいる前に、東南の窓を開けて大気を部屋に入れてください。空気が入れ替わってから、室をなるべく清浄にして、机の上に清い水をお椀(鉢)に入れて、その側に好きな線香を焚き、座布団を敷いて静かに呼吸して手は膝に揃えて正座します。静かに息を出してから、ゆっくりと息を吸います。そして心を空にする訓練を5分程して下さい。突然雑念や煩悩が起これば、すぐさま吹き消してまた心を保持します。これをいくども繰り返し、油断せず、無理せず、効果を期待してはなりません。この静座は眼を閉じず、耳を覆(おお)わず、趺跏(ふか)[禅の座り方]せず、数息(すうそく)[鼻息を数えて心を統一する方法]せず、考案によらず、ただ普通の日常生活の中にあるようにいたします。だから静座をしていても、飽きるときがあれば起ち、感じるときがあれば行動します。」

心の力は、繰り返し繰り返し、一つの内容の向けられることによって、鍛えられます。この一つのこととは『至誠』(しせい)であります。佐藤一斎の「言志耋録」(げんしてつろく)106条に「みずから欺(あざむ)かず、これを天に事(つか)えるという」という言葉があります。他人に対してではなく、なによりも自分自身を欺かない。至誠を尽くす。これを天に仕えるといいます。

『至誠』とは、自分自身に嘘をつかないことです。自分自身に何かを約束して、それを守り通すことができるということが、静座法(瞑想)を成り立たせる条件の一つであります。自分自身に対して誠実を守り得ることは、心の中に巨大な力の存在を意味します。

できれば毎日決まった時間に行うほうが良いでしょう。それは、混沌とした日常生活の中に、一定のリズムを持ち込み、人生を宇宙と同じようにリズミカルなものにする、ということです。



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第4回目 仁

 さて聖賢になるための一つ「仁」について説明いたします。

孔子の論語の、学而(がくじ)第一の三に、「子(し)曰く(いわ)、巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮(すくな)し仁(じん)」という言葉がでてきますが、これは、「先生が言われた、言葉巧みに、うまいこと話し掛け、顔つきをやわらげる人には、仁の徳をもっている者はほとんど無いものだよ」という意味であります。さてこの「仁」とはどのようなことでしょうか。

漢字の意味としては(したしむ、いつくしむ、なごむ、めぐむ、あわれむ、おもいやり、なさけぶかい、うるおいがある、徳、果物のさね)などの意味があります。この文字は人が敷物(衽・しきもの・おくみ・えり)をしているところから「臥席(がせき)なり」とあります。敷物をして安んじていることから、和親、慈愛の意味から徳目の意味に変化したと思われます。

「仁」とは解りやすくいいますと、深い人間愛に包まれた思いやりの心です。相手の立場、相手の気持ちになって考えられることです。心の温かさにほかなりません。ただこの「仁」には留意することが二つあります。一つ目は思いやりを持ちすぎて、小さなことにこだわって、大局を見誤ることです。親が子供を可愛いからといって甘やかしすぎることがありますが、厳しくする事も「仁」です。二つ目は「仁」にとらわれすぎて、決断が出来なくなることです。『菜根譚』(さいこんたん・1644年ころに中国の処世術の極意をまとめた古典・芋や大根のような風味のある話)のなかに「仁にして、よく断を善くす」とあります。「仁を持つにはすみやかに決断しなさい」という意味です。昔、宋の国の襄公(じょうこう)という王が敵の大軍と戦ったときのこと、相手の陣形が整わないのを見た参謀が「いま奇襲をかけて攻撃しましょう、チャンスです」と進言したところ、「そんな卑怯なまねはできない、陣形が起てなおってから堂々と戦う」といって攻撃命令をださず、大敗を喫した故事があります。相手は大軍です、こちらは兵隊の数が圧倒的にすくないのです、大軍に情けをかけて敗れた襄公を笑った言葉が「宋襄の仁」といいます。

「近思録」為学大要篇52の終りの方に、「恕(じょ)は則(すなわ)ち仁の施(し)、愛は則ち仁の用なり」とあります。自他の差別にとらわれない、公の心を持つことが「恕」(じょ・おもいやり・同情心・ゆるすこと)思いやりの気持ちであって、他を愛することができます。「恕は仁から施行され流れ出る、愛は仁の表現作用であります」

日本では情けは人のためならずともいいます。厳しさの中に温かさ思いやりの「仁」の心を大切にいたしましょう。



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第5回目 人はなんのために学ぶか

「夫(そ)れ学(がく)は通(つう)の為(ため)に非(ひ)ざるなり。窮(きゅう)して困(こん)しまず、憂(うれ)えて意(こころ)衰(おとろ)えざるなり、 禍福(かふく)終始(しゅうし)を知って惑(まど)わざるが為なり」  荀子(じゅんし)

真の学問は、立身出世や就職などのためではなく、人生において、窮しても苦しまなく、憂えて心衰えないこと、何が禍いであり、どうすればどうなるかという因果の法則・すなわち禍福終始を知り、人生の複雑な問題に直面しても敢(あ)えて惑わないための準備をすることなのです。  

三学

「少(わか)くして学(まな)べば壮(そう)にして為(な)すあり。壮(そう)にして学(まな)べば老(お)いて衰(おとろ)えず。

老いて学べば死しても朽(く)ちず」佐藤一斎『言志晩録』  

若い時代は夢があって、その思いを実現する為に努力いたしますが、歳をとるにしたがって、生活に追われて若かった頃の夢を忘れて勉強をしなくなり、学ぼうともしなくなっていく者があります。忙しさにだんだん「志」まで失っていきます。そうすると早く老衰がやってきます。肉体だけが丈夫でも精神が呆けてしまいます。これに反して、歳をとるにしたがって学道に精進する者は、呆けないし、何歳になろうとも実に若々しくなります。生きてきただけの叡智をまだまだ社会に役だたせることができます。この叡智を養うには『四書五経』を読むことが良いと考えます。この『四書五経』に『孝経』も含めて[六経]ともいいます。

始めに書いた「一棒一條痕(いちぼういちじょうこん)、一 一掌血(いっかくいっしょうけつ)」は南宋の禅の公案者であります大慧宗杲(だいえそうこう)のいった言葉ですが、孔子もこれに良く似たことをいっています。  

「子(し)曰(いわ)く、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、(ひ)せんずんば発(はっ)せず。一隅(いちぐう)を挙(あ)げて三隅(さんぐう)を以(も)って反(かえ)らざれば、則(すなわ)ち復(また)せざるなり」

「憤」(ふん)とは、気持ちが盛り上がり、気力が充実してくることであります。

「」(ひ)とは、(いらだつ)という意味もあって、言葉が口もとまで出かかっている状態のことであります。また「啓」も「発」も中に隠れているものを、開いて外に出してやることであります。だから次のような意味になります。

相手の気持ちが盛り上がり、輝く眼で真剣に聞く気がなければ、手を貸してやらない。気持ちが口まで出かかっているのでなかったら、助け舟は出してやらない。一つの隅(ぐう・すみ・小さな事柄、一を聞いて十を知るの一)を示しただけで、他の三つの隅にも鋭く類推を働かせるようでなかったら、それ以上の指導は差し控える。ということが孔子の教育方針であったようです。

たしかに、本人のやる気がなかったのでは、効果はあがりません。ちなみに 「憤せずんば啓せず、 せずんば発せず」のくだりから「啓発」という言葉が生まれました。意識を持ち自己啓発いたしましよう。

「子(し)曰(いわ)く、学(まな)んで時(とき)に之(これ)を習(なら)う。亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり遠方(えんぽう)より来(きた)る 亦(ま)た楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして而(しか)も慍(いか)らず、亦(ま)た君(くん)子(し)ならずや」

この文は「論語」学而(がくじ)第一の語録で、「論語」全体の内容を象徴する箴言(しんげん)[いましめとなる短い格言]となっています。

学問をして、いつでも復習すると、学んだことが充分に理解でき、身について向上してきます。そのことはなんと嬉しいことではありませんか! またこうして学問に励んでいると、同じ学問に志す人々が、近くからは言うまでもなく、遠いところから来てくれるのは本当に楽しいものだ、同じ道について語りあえるからね。こうしていると優れた学識が身について来ますが、世間の人々が自分の学徳を認めてくれなくても、不満に思ったり怒ったりしないのは、いかにも凡人ではなく仁徳の人だね。という言葉があります。君子すなわち聖賢の人のことです。他人の評価よりも自分の修身を基本とします。誠の意識の気持ち、凛として、天に恥じない正しい心を持つことを研鑚します。

西郷隆盛の「人を相手にして、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くして人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ねるべし」という言葉があります。「誠」に対して信念の意識を持っていました。江戸後期の最高峰の儒者で碩博(せきはく)であります佐藤一斎の「言志四録」(げんししろく)の中でこのように書いています。

「凡(およ)そ事を作(な)すには、須(すべか)らく天に事(つか)ふるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず」

と、やはり人に解ってもらおうとせずに、天を相手に心することを言っています。学問の第一は自分自身のためです。いかなる時にも心の動揺のないように天を相手にします。うろたえてはいけません。  



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第6回目 感謝の心

生命(いのち)について考えます。

ある小学校六年のクラスで「ひよこ」を1羽買ってきました。そのクラスの先生が教室の隅で囲いをして、飼うことを提案したのです。みんなあまりの可愛さに大切々々に、それはそれは育てました。水の世話から餌の世話、小屋の掃除と一生懸命に育てました。

売られている「ひよこ」はオスがほとんどです。大きくなっても「たまご」を生みません。その1羽の「ひよこ」はだんだんと大きくなって、小さな赤い「とさか」が出来てきました。それでも可愛く子供たちの足元に寄ってきます。そして半年ほど経って「ひよこ」は立派な「にわとり」になりました。

さてそこで、クラスの先生が家庭科の授業のときに、いままで大事に飼ってきた「にわとり」をつぶして食べようと提案しました。「このクラスももうすぐ卒業ですので、このまま飼って置くのは無理のようだから、大きくなっても玉子を生まない「にわとり」なら卒業記念にこれを食べましょう」と提案したのです。

カシワは「にわとり」の肉です。ケンタッキーフライドチキンはとっても美味しいです。とんかつは豚の肉です。ビフテキは牛肉です。

肉だけの姿になって肉屋さんのウインドウの中に綺麗にならべて売られています。生きものたちの命を食べていることを忘れていました。  先生の提案にびっくりして、子供たちは泣いて、先生にしがみつき、食べるのはやめてほしいと涙をいっぱいためて抗議しました。  そこで、その先生は命の大切さをゆっくりと話し出しました。

食事をするときに「いただきます」と手を合わせていいますが、あなた(他の生き物・お米、野菜、魚、動物、)の『命を頂いて』私は生かされています。と感謝する気持ちが大切です。食物連鎖は地球上の生き物全体にとって止むを得ないことではありますが、生き物の命を『頂いて』生きているということを自覚して、自分と他の人々の生命を大切に考えたいと思います。

また、その食事を頂くときの廻りを見てください。お茶碗にお箸、お湯のみ、お皿、食事机など身の廻りの物を、何一つ自分で作った物はありません。他の命を頂いて、そして何一つ自分で作らず、それでも生かされているのは実に、不思議なことではありませんか?この不思議に喜びと感謝の心を持ってください。「有り難いたい」と思う気持ちが、気持ちの余裕となって良い顔つきになります。美人や男前というのではなく、温かい良いお顔を作りたいと思います。

この有り難い、有難うという言葉もなかなか不思議な漢字で、有ることが難しいと書きます。「世の中に不思議はいろいろある中で、自分が生きているのが一番不思議」いう標語がありますが、いま自分がここにいるということは、本当に不思議なことなのです。

大宇宙の時空を超えた、無限無量不可思議の時間の中で自分がここに「有る」ということはあたりまえのようですが、何万世代の先祖のほんの少し空間と時間のずれが起これば、決して自分はここにいなかったのです。

自分がここに「有る」ことは本当に「有ることが難しい」のです。自分がここに有ることを「感謝」して『有難う』といいます。

私の大学の同級生から聞いた話ですが、絵を描いている先輩が顎の「癌」になり、手術で顎をとってしまったらしいです。顎がないと食事の咀嚼も満足にできません。また話すこともできません。死ぬほどつらいだろうなあと思いましたが、その先輩は、「まだ眼が見えて、手も動きます。好きな絵が描けます。だから幸せです」と話されたらしいです。

いま、ここに有る生命(いのち)を大切にしなくてはなりません。健康に喜びと感謝をもって今日を精いっぱい生き抜きましょう。



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